なぜ家族のお世話は「やって当たり前」になる?暮らしを支える“ケア”の話

「家族なんだから、やって当たり前」
そんな言葉を、直接言われたことがある人も、ない人もいると思います。
でも、
- 毎日のごはんを考えること。
- 洗濯をすること。
- 子どもの持ち物を準備すること。
- 家族の体調を気にすること。
- 泣いている赤ちゃんを抱くこと。
- 疲れて帰ってきた家族の話を聞くこと。
こうしたことに対して、
「誰かがやってくれている」と意識する機会は、案外少ないものです。
できているときには、目立たない。
でも、誰もやらなくなった途端、暮らしは回らなくなる。
家庭の中には、そんな仕事がたくさんあります。
「ケア」と聞いて、何を思い浮かべますか?
「ケア」という言葉を聞くと、医療や看護、介護、助産師や保健師などの専門職が、支援を必要としている人を助けること。
そんなイメージを持つ人も多いかもしれません。
もちろん、それらもケアです。
でも、ケアはもっと私たちの日常の中にもあります。
たとえば、朝。
- 子どもを起こす。
- 朝ごはんを用意する。
- 「今日ちょっと顔色悪いかな」と気づく。
- 天気予報を見て、必要な持ち物を考える。
- 家を出る時間を逆算する。
- 夜になれば、
- 食事をつくる。
- お風呂に入れる。
- 話を聞く。
- 明日の準備をする。
- 眠れる環境を整える。
どれも特別なことには見えません。
でも、その一つひとつがなければ、
誰かが食べられない。
眠れない。
安心できない。
学校や仕事へ行けない。
暮らしが続いていかない。
ケアを広く捉えるなら、
人の生命と暮らしが続いていくように、
気にかけ、考え、手をかけること。
私たちは、そんなケアを毎日の暮らしの中で繰り返しています。

家庭は、たくさんのケアが行われている場所
家庭という場所を、「家族が一緒に住んでいるところ」ではなく、「人の生命と暮らしを、毎日つないでいるところ」として見てみると、少し違って見えてきます。
昨日ごはんを作っても、今日またお腹は空きます。
昨日洗濯をしても、今日また服は汚れます。
昨日子どもの話を聞いても、今日また新しい出来事があります。
一度やったら完成するものではありません。
人が生きている限り、
食べる。眠る。清潔を保つ。安心する。育つ。休む。
そうしたことが毎日必要になります。
そして、そのたびに誰かが、
気づく。考える。準備する。手を動かす。調整する。
家庭では、生命と暮らしを維持するための膨大なケアが、毎日繰り返されています。
なのに、なぜ「やって当たり前」になるんだろう?
不思議なのはここです。
これほど人が生きるために必要なことなのに、家庭の中に入った途端、
「家のこと」
「家族のこと」
「お母さんがやること」
として、見えにくくなることがあります。
- ごはんが出てくる。
- 洗濯された服がある。
- 子どもが学校へ行く。
- 家族の予定がなんとなく回っている。
結果だけを見ると、「普通の一日」です。
だから、その普通の一日を成立させるために、誰かがどれだけ気づき、考え、動いているのかは見えにくい。
しかも、ケアには形に残らないものがたくさんあります。
「そろそろオムツ買わないと」
「明日は体操服がいる」
「今日はちょっと機嫌が悪いな」
「最近、夫が疲れているな」
「冷蔵庫に何があったっけ」
実際に手を動かす前にも、気づく、覚えておく、考える、先回りする、調整する。
そんな見えない働きがあります。
それも含めて、暮らしは成り立っています。

「愛情」と「やって当然」は、同じではない
もちろん、家族のために何かをすることには、愛情があります。
子どものためにごはんを作りたい。
家族が元気でいてほしい。
誰かが困っていたら助けたい。
そう思うこと自体を、否定する必要はありません。
でも、
「大切だからしたい」ことと、
「家族なんだから全部やって当然」は、別の話です。
ケアすることが好きな人もいます。
人の役に立つことに喜びを感じる人もいます。
だからこそ、
「好きなんだからできるよね」
「家族なんだから無償で当然」
「お母さんなんだから我慢できるよね」
となってしまえば、
ケアする人の負担や限界は見えなくなります。
ケアそのものが問題なのではなく、
誰が、どれだけ、どんな条件で担っているのか。
そこまで見ていく必要があります。
ケアは「する側」と「される側」に分かれているものでもない
もう一つ、ケアについて大切にしたいことがあります。
それは、ケアは「弱い人が受けるもの」ではないということです。
赤ちゃんの頃は、誰もが全面的にケアされて生きています。
病気になれば、誰かの助けが必要になることがあります。
疲れている日は、ごはんを作ってもらうだけで助かる。
話を聞いてもらう日もある。
そして別の日には、自分が誰かを支える側になる。
人はずっと、
ケアする側/される側を行き来しながら生きています。
「一人で全部できる人」だけで社会ができているわけではありません。
むしろ、誰かが誰かの暮らしを支えることで、私たちの日常は成り立っています。

家庭のケアを「家族だけの責任」にしなくてもいい
ここで考えたいのは、家庭で行われているケアをなくすことではありません。
家族だからこそできることもあります。
- 親だから気づけること。
- 一緒に暮らしているから分かること。
- 大切な人だから、してあげたいこと。
それはこれからも家庭の中にあっていい。
変えていきたいのは、
「家庭に必要なケアは、家族だけで担うもの」という前提。
家族もする。
友人も関われる。
地域の人も関われる。
行政や専門職が担うこともある。
必要なら、暮らしを支えるためのサービスを利用してもいい。
家庭の外にいる人が、その家庭に必要なケアの一部を、一緒に担ってもいい。
そう考えたとき、
「誰かに頼る」ということの意味も少し変わります。
できないから頼る。限界だから助けてもらう。だけではなく、
人の暮らしにはもともとケアが必要だから、複数の人で担う。
そんな考え方があってもいいのではないでしょうか。
産後は「ケア」が一気に増える
そして、このことがとても分かりやすく表れるのが、産後です。
赤ちゃんが一人生まれる。
すると、その小さな生命を支えるためのケアが、家庭の中に一気に増えます。
でも多くの場合、ケアする人の数は、それほど増えません。
しかも出産した母親自身も、本来は身体を休め、支えてもらう必要がある時期です。
だから、「産後くらい家族でなんとかする」ではなく、
ケアが増えたなら、ケアする人も増えていい。
家族以外の人が家庭に入り、一緒に暮らしを支える。
それが特別なことではなく、もっと自然な選択肢になってもいいのかもしれません。
そして今、そんな「暮らしのケア」を家庭に届けることを、仕事にしている人たちがいます。
次の記事では、「もっと家庭に寄り添う支援がしたい」人へ。産後パートナーという働き方についてご紹介します。


